あなたが、あなたである自由を自覚して生きる時。

COLUMN

『自分』と『成長』への囚われ

自分がやっていることのクオリティやレベルを高めたいと望むことは素晴らしいと思う。そういう、いわゆる成長欲求が、自分の能力を確かに高めてくれる。しかし、そうして身につけたものも、存分に発揮し表現出来なければ、その能力によって生まれるはずの素晴らしいことを自分も周りも味わうことが出来ない。それはとてももったいないこと。

すごくいいものを持っている。練習熱心。努力家。しかし本番になると発揮できない・・・。なぜ、人はせっかく高めたものを、出したい時に出せなかったりするのだろうか?どうしたら、出したい時に出せるようになるのだろうか?

この問いを考える時に、とても大切なキーワードがある。それは『自分への囚われ』『成長への囚われ』を手放すこと。

 

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人は成長したいと願う時、「もっとこんな自分になりたい」「もっとあんなことができるようになりたい」と思って努力する。その時に基点となるのは、「それが出来ない自分」であり、比較や評価の中で「それが出来ない自分はダメだ」という感覚だ。

そして、この基点が実は「自分を成長させてくれる」ものでもあり、同時に「発揮を阻害するもの」でもあると言ったらどう思うだろうか?

このアクセルでもあり、ブレーキでもある、「それが出来ない自分はダメだ」は、いざそれを発揮しようという場面で、自分の意識に「自分は本当にそれが出来るだろうか?」「それをしている自分を周りはどう見ているだろうか?」という『自分への囚われ』を生む。

その瞬間、「ただ持っているものを発揮する」という純粋さが失われる。そして心が乱れ、より自分に囚われていく。「どうしよう」「あれなんか出来ない?」「おかしい」「みんなが自分を冷たい視線で見てる」「どうしよう」「どうしよう」…

そして結果、出しきれないということになっていく。そして「それが出来ない自分はダメだ」がまた強くなりもっと頑張ろうとする。そしてまだいざそれを発揮しようとする時によぎる。「自分は・・・」

 

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これを私は『自分への囚われ』ループと名づけている。わたしは数年前までは、まさにこのループに囚われていた。でもここ最近は、このループから意識的に外れることが出来るようになっている。『自分への囚われ』ループからの離脱、それは表現するとこんな感じだろうか?

自分がそれを出来るか出来ないかはどうでもいい。自分がどう見られているかなんてどうでもいい。今この瞬間に、自分を含むその場にいる人たちに、その場そのものに、100%意識を向けて、そこで「そうしたい」「そうすることがよい」と思うことをただするだけ。ただそれだけ。という感覚。

それでも『自分への囚われ』は現れてくる。その時は、「ただ自分は今この瞬間に、自分がそうしたい、そうすることがよいと思うことを100%するだけ」と唱えて思い出す。

これが結果として自分の持っているものを「出し切る」ことにつながる。仮にその時に望んだ結果が出なかったとしても、そんな自分にダメ出しをするのではなく、この時に起きたことを純粋に見つめて、「次はどうしようかな~」「どんな風にしたらもっと良くなるかな~」と純粋に創意工夫してみようと思う。ただそれだけ。「それが出来ない自分はダメだ」の感覚は一切いらない。

 

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比較や評価の中で、OKな自分とNGな自分を生み出し、「それが出来ない自分はダメだ」と『成長に囚われる』時、人は「無いもの」に目がいく。そして、その「無いもの」を得ようとする。「ある」ように見える人を羨み、「無い」自分を否定しはじめる。

そうではなく、まず自分が自分であることを100%OKすること。どんな自分がそこにいたとしてもそれは全て受け入れる。陰も陽も受け入れる。そうすると、自ずと自分の中にある純粋なものに氣づいていく。どういう自分でありたいのか?何に情熱が沸き立つのか?どんな特性を持っているのか?

「それが出来ない自分はダメだ」という意識が強いと、この自分の中にある純粋なものへの氣づきが鈍る。

「いや~自分はどうありたいかとか、特性とか、情熱とかわからない・・・」という人はまさに「それが出来ない自分はダメだ」という思考習慣に無自覚にどっぷりつかってしまっているかもしれない。(特に日本の多くの教育はこういう思考習慣を生み出しやすいものが多いのでなおさら)

 

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そこに氣づいたら、あとはただ瞬間瞬間、自分の命を活かすこと。どんな自分としてその場にいるかを決める。何が出来る自分がではなく、どういう自分でありたいか。ありたい自分とは能力とか知識の有無ではなく、意志がベース。たとえば“愛を与え受け取る人”“人を活かし活かされる人”“どんな時も可能性を信じきる人”“楽しさを見出す人”etc.

出来るかどうかではなく、周りがそれを期待するからでもなく、純粋な意志から「そうありたい」と思い、ただ「そうある」と決めるだけ。そして、そんな自分として、自分も含めたその場にいる人たちに、その場そのものに、どんな状態を出現させたいか?どんな感覚を生み出したいか?ただそれだけに意識を向ける。

あとは、ただ純粋に、その瞬間瞬間に意識を向ける。ありたい自分としてただその時にそうしたい、そうすることがよいと思うことをやるだけ。結果として何が起きてもそこにダメなことは無い。それは必要だから現れることであり、大切なプロセスの一部として受け容れ楽しむ。

その積み重ねの中で、「あっこれは自分の強みなのかもな」と思うことを自覚したら、それをもっと活かそう、もっと磨こうと思えばいい。その意識でただするだけ。そこに『自分への囚われ』や『成長への囚われ』はない。

結果として「発揮できる自分」、「成長している自分」をつくりだすのは、そこに囚われないことからくる自由さと氣楽さではないか。人は呼吸を、魚は泳ぎを、鳥は羽ばたきを意識しないのと同じように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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